地に降った真の光
- 2015/12/20
- 18:32
クリスマス礼拝
ルカによる福音書2章1~11節.2015.12/20
2:1 その頃、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったから である。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、全ての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたの為に救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。
クリスマスおめでとうございます。今、世界中がクリスマスを祝っています。この季節になると、仙台で育った私は、の光のページェントを思い出します。街の大きな道路の中央分離帯にケヤキ並木があり、何㎞にも渡ってイルミネーションが飾られ、大勢のサンタが行進します…日本中の街でも、綺麗なイルミネーションが飾られています。けれども、本当のクリスマスを心からお祝いし、感謝を献げているのはキリスト教会なのです。


クリスマスは、神の一人子イエス・キリストのご降誕をお祝するものだからです…また、そこには、”その乳飲み子が、やがて十字架にお架かり下さる事への感謝”も込められています。
この時、イスラエルはローマ帝国に支配されており、ローマ皇帝アウグストから、世界ではじめの人口調査の勅令が出されたのでした…人々は、徴税と徴兵の為に、生まれ故郷に戻って登録しなければならなくなったのです。
旧約聖書のミカ5章1節に、このような預言があります…「ベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私の為にイスラエルを治める者が出る…」。そして新約聖書の、ルカによる福音書には、”イエス様は、預言されていた通りに、ダビデの家系に、またベツレヘムの地で御降誕された”と記しているのです…それは、”預言の成就”でした。
不思議な事に、マリヤの婚約者であったヨセフの故郷はベツレヘムでした。エルサレムから南に数㎞の所にある、人口900人程の小さな村だったのです…神の摂理とはいえ驚きです。

そこでヨセフは、ガリラヤのナザレの町から、故郷のベツレヘムに向け、臨月のマリヤをロバ乗せて170㎞(5~6日)の旅に出たのでした…でも何故、ロバだったのでしょう?…ロバは馬と歩き方が違うからでした。右前足と右後ろ足を同時に前に出し、次に、左前足と左後ろ足を同時に前に出す歩き方で、しかも小刻みに歩くので、上下動が少なく、マリヤへの負担が少なくて済んだからでした…ここに、”ヨセフの信仰が現れています…み使いから受けた、み告げである、「胎内の子は、聖霊によって身ごもった子であり、救い主となる」を信じて、マリヤの身をいたわったから”でした。
やっとベツレヘムに着いた時、マリヤは安堵感からでしょうか?急に産気づいたのです…けれども、27節に「客間には彼らのいる余地が無かった」とあります…住民登録の為に、帰省した人々で、どの宿屋も満員だったのです…誰も身重なマリヤに宿を譲ってくれないまま、夜が更けてきて、寒さが身に凍みてきた頃、やっと家畜小屋が与えられ、そこでマリヤは出産したのでした。
昔~のお話です?…妻が長女を出産した時、予定より三週間早く、深夜に破水したので、病院に電話して車で向かいました。妻が「急いで」と言うので、「はい」と言って出発しました。すると、「気をつけて、ゆっくり」「はい」「急いで」「は、はい」…「何なんだよ」と思いながら、「聖子さん必死なんだな」と思いつつ運転していました。その時、「ああ、マリヤはイエス様を産む場所が無かった…今、自分たちには、病院という行き先がある。感謝だなあ」と思ったのを忘れられません。
深夜の病院の廊下で、ドアに耳をつけてカチャカチャという手術の音を聴いていました…暫くしたら、「おぎゃ~」と聞こえてきたのでホッとしていると、「お医者さんが出てきて、逆子で、その上、へその緒が首に三重巻きになっていました。予定日まで待っていたら死んでいましたよ」と言われ、守られた事に感謝しながら帰宅した時、朝刊配達のおばさんに出会い、気づいたら報告をしていました、おばさんに、「おめでとう。守られて良かったねえ」と言って頂けたのも忘れられません…そんな時、思わぬ人の情けの一言が嬉しいのですが、ヨセフとマリヤは、誰からも人の情けを受けられなかったのでした。

その”家畜小屋は洞窟”で、薄暗く暖房もない所でした。それは、”孤独な人の心”の様です。人にとって何よりも辛いのが、”孤独”です…”イエス様が暗闇の中で御降誕されたのは、
”救い主が、孤独な人の心に光として来てくださる事の暗示”だったのです。
また、イエス様が寝かされたベッドは、”飼い葉桶”でした…それは木でなく、”石を彫ったゴツゴツした冷たい桶だった”と言われています。また、”家畜のヨダレや糞がこびりついていて不衛生”でした…ある神学者は、まぐさ桶、今風に言うなら、ゴミを捨てるポリバケツのような所だと言います…ヨセフは、生まれてくるイエス様を、そこに寝かせようと、一生懸命に拭き、産まれた乳飲み子を寝かせたと思いますが、”その飼い葉桶に寝かされたお姿は、救い主は、冷たく汚れた人の心に来られるお方である事を暗示”していました。
また、”乳飲み子”は「布にくるまれて寝かされていた」とあります…この”布”は”おむつ”だと言う事です。”救い主には、おむつしか産着が無かった”のです…”おむつを替えて貰わなければならない存在に、神が謙られた事を暗示して”います。

先週の祈祷会で、イエス様の御降誕の箇所を学んでいた時、ある方が、「その光景を思い浮かべると胸が痛みます。神さまは、我が子に対して惨い事をなさるなあ。とどうしても思ってしまいます」と言われました…心情的に良く分かります。そして、その祈祷会の結論は、”この飼い葉桶に寝かされたイエス様のお姿は、イエス様のご生涯(人の心に来て下さる救い主)と、十字架を暗示している”と言う事でした…神の一人子が、飼い葉桶に寝かされたのは、全ての人に救いの道を与えて下さる、”神の愛、痛みの愛の徴”だったのです。
先週、教会学校クリスマスで、影絵の降誕劇がありました。素晴らしいものでしたので、午後のクリスマス祝会の再公演を楽しみにしてください。ある実話を御紹介します。アメリカの小さな村に.ウオーリーという九歳の子どもがいました。その子には知的障害がありました。
その年の教会学校のクリスマスの劇で、ウオーリーは宿屋の主人役をする事になりました。クリスマスになり、教会には大勢の人々が集まりました。ヨセフとマリヤが旅館にやって来てコンコンと門を叩きました。主人が出て来て「旅館には、空き部屋が無いので他の所を当たってください」と言いました。しかし、ヨセフとマリヤは更に願いました。「とても遠くから来たのです…妻は陣痛が始まったのです」…すると旅館の主人に扮装したウオーリーは無言でマリヤをじっと見つめたのです。先生はウオーリーが台詞を忘れたのだと思い、側に行って読んであげました。暫くの間、黙って立っていたウオーリーは、「駄目です。部屋がありません」と言いました。ヨセフとマリヤは悲しそうに後ろを向いて去って行きました。先生がホットした時、ウオーリーは、戸口に立って涙を流しながら叫んだのです…「ヨセフ、マリヤ。行かないで!マリアを連れて戻って来て…僕の部屋を使って。僕の部屋で休んでよ!」…劇は台無しになりました。でも、この場面を見た人々は、「最も意味深いクリスマスの劇を見た」と言ったそうです。

ルカ福音書2:6-7に「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります…”クリスマスは、ウオーリーのように、”イエス様を心にお招きする(お泊めする)者の心に起こる”のです。”イエス様は、その人に対して、十字架の救い主として、罪に十字架の赦しと、永遠の命を、また、世の光として、悲しむ心に慰めを、また孤独な心に愛の光を灯してくださる”のです…このお方の御降誕をお祝いしているのが、”教会が祝い感謝しているクリスマス”なのです。


礼拝インターネットライブと過去の映像 『USTREAM』岬教会礼拝

ルカによる福音書2章1~11節.2015.12/20
2:1 その頃、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったから である。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、全ての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたの為に救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。
クリスマスおめでとうございます。今、世界中がクリスマスを祝っています。この季節になると、仙台で育った私は、の光のページェントを思い出します。街の大きな道路の中央分離帯にケヤキ並木があり、何㎞にも渡ってイルミネーションが飾られ、大勢のサンタが行進します…日本中の街でも、綺麗なイルミネーションが飾られています。けれども、本当のクリスマスを心からお祝いし、感謝を献げているのはキリスト教会なのです。


クリスマスは、神の一人子イエス・キリストのご降誕をお祝するものだからです…また、そこには、”その乳飲み子が、やがて十字架にお架かり下さる事への感謝”も込められています。
この時、イスラエルはローマ帝国に支配されており、ローマ皇帝アウグストから、世界ではじめの人口調査の勅令が出されたのでした…人々は、徴税と徴兵の為に、生まれ故郷に戻って登録しなければならなくなったのです。
旧約聖書のミカ5章1節に、このような預言があります…「ベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私の為にイスラエルを治める者が出る…」。そして新約聖書の、ルカによる福音書には、”イエス様は、預言されていた通りに、ダビデの家系に、またベツレヘムの地で御降誕された”と記しているのです…それは、”預言の成就”でした。
不思議な事に、マリヤの婚約者であったヨセフの故郷はベツレヘムでした。エルサレムから南に数㎞の所にある、人口900人程の小さな村だったのです…神の摂理とはいえ驚きです。

そこでヨセフは、ガリラヤのナザレの町から、故郷のベツレヘムに向け、臨月のマリヤをロバ乗せて170㎞(5~6日)の旅に出たのでした…でも何故、ロバだったのでしょう?…ロバは馬と歩き方が違うからでした。右前足と右後ろ足を同時に前に出し、次に、左前足と左後ろ足を同時に前に出す歩き方で、しかも小刻みに歩くので、上下動が少なく、マリヤへの負担が少なくて済んだからでした…ここに、”ヨセフの信仰が現れています…み使いから受けた、み告げである、「胎内の子は、聖霊によって身ごもった子であり、救い主となる」を信じて、マリヤの身をいたわったから”でした。
やっとベツレヘムに着いた時、マリヤは安堵感からでしょうか?急に産気づいたのです…けれども、27節に「客間には彼らのいる余地が無かった」とあります…住民登録の為に、帰省した人々で、どの宿屋も満員だったのです…誰も身重なマリヤに宿を譲ってくれないまま、夜が更けてきて、寒さが身に凍みてきた頃、やっと家畜小屋が与えられ、そこでマリヤは出産したのでした。
昔~のお話です?…妻が長女を出産した時、予定より三週間早く、深夜に破水したので、病院に電話して車で向かいました。妻が「急いで」と言うので、「はい」と言って出発しました。すると、「気をつけて、ゆっくり」「はい」「急いで」「は、はい」…「何なんだよ」と思いながら、「聖子さん必死なんだな」と思いつつ運転していました。その時、「ああ、マリヤはイエス様を産む場所が無かった…今、自分たちには、病院という行き先がある。感謝だなあ」と思ったのを忘れられません。
深夜の病院の廊下で、ドアに耳をつけてカチャカチャという手術の音を聴いていました…暫くしたら、「おぎゃ~」と聞こえてきたのでホッとしていると、「お医者さんが出てきて、逆子で、その上、へその緒が首に三重巻きになっていました。予定日まで待っていたら死んでいましたよ」と言われ、守られた事に感謝しながら帰宅した時、朝刊配達のおばさんに出会い、気づいたら報告をしていました、おばさんに、「おめでとう。守られて良かったねえ」と言って頂けたのも忘れられません…そんな時、思わぬ人の情けの一言が嬉しいのですが、ヨセフとマリヤは、誰からも人の情けを受けられなかったのでした。

その”家畜小屋は洞窟”で、薄暗く暖房もない所でした。それは、”孤独な人の心”の様です。人にとって何よりも辛いのが、”孤独”です…”イエス様が暗闇の中で御降誕されたのは、
”救い主が、孤独な人の心に光として来てくださる事の暗示”だったのです。
また、イエス様が寝かされたベッドは、”飼い葉桶”でした…それは木でなく、”石を彫ったゴツゴツした冷たい桶だった”と言われています。また、”家畜のヨダレや糞がこびりついていて不衛生”でした…ある神学者は、まぐさ桶、今風に言うなら、ゴミを捨てるポリバケツのような所だと言います…ヨセフは、生まれてくるイエス様を、そこに寝かせようと、一生懸命に拭き、産まれた乳飲み子を寝かせたと思いますが、”その飼い葉桶に寝かされたお姿は、救い主は、冷たく汚れた人の心に来られるお方である事を暗示”していました。
また、”乳飲み子”は「布にくるまれて寝かされていた」とあります…この”布”は”おむつ”だと言う事です。”救い主には、おむつしか産着が無かった”のです…”おむつを替えて貰わなければならない存在に、神が謙られた事を暗示して”います。

先週の祈祷会で、イエス様の御降誕の箇所を学んでいた時、ある方が、「その光景を思い浮かべると胸が痛みます。神さまは、我が子に対して惨い事をなさるなあ。とどうしても思ってしまいます」と言われました…心情的に良く分かります。そして、その祈祷会の結論は、”この飼い葉桶に寝かされたイエス様のお姿は、イエス様のご生涯(人の心に来て下さる救い主)と、十字架を暗示している”と言う事でした…神の一人子が、飼い葉桶に寝かされたのは、全ての人に救いの道を与えて下さる、”神の愛、痛みの愛の徴”だったのです。
先週、教会学校クリスマスで、影絵の降誕劇がありました。素晴らしいものでしたので、午後のクリスマス祝会の再公演を楽しみにしてください。ある実話を御紹介します。アメリカの小さな村に.ウオーリーという九歳の子どもがいました。その子には知的障害がありました。
その年の教会学校のクリスマスの劇で、ウオーリーは宿屋の主人役をする事になりました。クリスマスになり、教会には大勢の人々が集まりました。ヨセフとマリヤが旅館にやって来てコンコンと門を叩きました。主人が出て来て「旅館には、空き部屋が無いので他の所を当たってください」と言いました。しかし、ヨセフとマリヤは更に願いました。「とても遠くから来たのです…妻は陣痛が始まったのです」…すると旅館の主人に扮装したウオーリーは無言でマリヤをじっと見つめたのです。先生はウオーリーが台詞を忘れたのだと思い、側に行って読んであげました。暫くの間、黙って立っていたウオーリーは、「駄目です。部屋がありません」と言いました。ヨセフとマリヤは悲しそうに後ろを向いて去って行きました。先生がホットした時、ウオーリーは、戸口に立って涙を流しながら叫んだのです…「ヨセフ、マリヤ。行かないで!マリアを連れて戻って来て…僕の部屋を使って。僕の部屋で休んでよ!」…劇は台無しになりました。でも、この場面を見た人々は、「最も意味深いクリスマスの劇を見た」と言ったそうです。

ルカ福音書2:6-7に「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります…”クリスマスは、ウオーリーのように、”イエス様を心にお招きする(お泊めする)者の心に起こる”のです。”イエス様は、その人に対して、十字架の救い主として、罪に十字架の赦しと、永遠の命を、また、世の光として、悲しむ心に慰めを、また孤独な心に愛の光を灯してくださる”のです…このお方の御降誕をお祝いしているのが、”教会が祝い感謝しているクリスマス”なのです。


礼拝インターネットライブと過去の映像 『USTREAM』岬教会礼拝

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