「怒るに遅く」
- 2016/04/18
- 11:34
ヤコブの手紙1章19~25節、【口語訳】2016年4月27日
1:19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
1:20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
今朝は、ヤコブの手紙からお話します…はじめにこのヤコブ書の著者についてお話します。原始教会には、ヤコブが4人もおり、その内の誰かかは明確には分かっておりません。
そのヤコブは、ここで、「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅くあるべきである」と言いました。自分自身にとって耳の痛い御言です。分かっていても、なかなか実行出来ないからです。こんなお話を聞いた事があります…ある天然系の奥様が、買い物から帰って来て、「ネェネェお父さん。お寿司買って来たからラーメン食べよう」と言ったそうです…毎日、こんなんでしたら、何時も試される御言だと思います。

【聖小ヤコブ】ピーテル・パウル・ルーベンス
今朝の御言は、「愛する兄弟たちよ」という呼びかけで始まっています。原語では、「私の愛する兄弟姉妹よ」となっています…全てのクリスチャンに対して、上から目線でなく、愛の目線で呼びかけている御言です。
そして、「怒るのに遅くあるべきである」(19節)と言うのです…温和な人にも、短気な人にも、同じく語られているのです。けれども、”怒りは神が与えて下さった感情の一つ”の筈です。また我が身や愛する人を守り、改革のエネルギーをももたらす事もあります。
現代社会は、人々の内に「怒り」が蔓延していると言われます。反対に、一見、”良い子”も増えているように感じます。良い子というのは、相手の期待に添うように行動する人の事です。そういう人は、感情を抑圧していますので、許容量を超えると爆発して、自分や家族を傷つけたり、他者を虐めたりしてしまいます…怒りが罪を生んでしまうのです。
自分の経験では、怒っても、ろくな事になりません。相手には自分の怒りの感情だけが残り、肝心な事が伝わらず、感情がぶつかり合うだけです…”怒る事と叱る事は違うから”です。
古代の哲学者セネカは、「怒る事の出来ない人は愚かという他ない。しかし、怒りを支配できる人は賢明である」と言ったそうです。彼は、残虐さで有名なローマ帝国の暴君ネロの家庭教師でした…ネロに怒りをコントロールする大切さを教えても、身につけさせる事は出来なかったのです。
聖書中で、有名なのは、”カインの怒り”です…神はカインの献げ物を受け入れず、彼の弟アベルの献げ物を受け入れました。”信仰の姿勢を見抜いての事”でした。
しかしカインは、その事で、悔い改めなかったばかりか、反対に、”怒って、アベルを殺してしまった”のでした…人類二代目にして、怒りから殺人が起きたのです。

ツィツィアーノ作、カインとアベル
この時、神は、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである」(創世記4章7節)と言われました…これは、”怒りは罪を生み出す戸口である”という事です。ですからヤコブは、「人の怒りは、神の義を全うするものではない…」と言ったのです。新約聖書の使徒パウロも、「怒っても罪を犯してはなりません…」(エペソ4:26)と言いました。
確かに、”怒りそのものは罪ではなく、改革のエネルギーでもあり”ます。ですから、”怒りを正しい方向へ向ける方法を身につけるべき”なのです…では、どうしたら良いのでしょうか?…聖書は、”「先ず、キリストを信じて、御霊に満たされよ」と言います。
ガラテヤ人への手紙5章22~23節に、「自制」という言葉があります。”聖霊を受け、満たされた人は、御霊の実を結んで、キリストに似た者に変えられて行き”ます。そして、
”最後に結ぶ御霊の実が「自制」”なのです…”怒りの自制は、結ぶ事が最も困難な御霊の実だから”です…クリスチャンが、自制という御霊の実を結ぶと、怒るに遅い人に変えられる”のです。
次に、ここで、「聞くに早く」と勧められています…これは、先ず「神の言」を…”御言を素直に聴く、受け入れる心”を持ちなさいという事です。
ヤコブは、更に「御言を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)とも言いました…それは、御言に聴くと、自然とそれを行う生活になるから”です。
イースターの夜の中高生会の直前に、聖子先生から、「近所で死にそうな老犬がいるそうよ。見てきて」と頼まれました。
その時は、年会の直前で、一週間は面倒見られない。困ったなと思いましたが、前任地時代に、捨て犬に出会った時の事を思い出しました。その犬は、全身が重い皮膚病で覆われていました。「助けて」と哀願する目で近づいて来たのです。その時は、どうしても飼えない事情があったので、「ゴメンネ」と言い、祈って帰りました。けれども、それから、時々、あの犬の目の夢を見るようになり、良きサマリヤ人の譬えを語れなくなりました。

そこで餌と水を持って捜しに行きました。直ぐ見つかりましたが、餓死直前でヨロヨロと側溝に落ちた所でした。このままでは今晩もたないと思い連れ帰りました。その犬は、悲しみと諦めに満ちた顔をしていました。
翌日、飼い主捜しも含めて、保健所に、迎えに行けるまで、特例で一週間も預かって頂く事にしました。ツイッターや、ラインでも引き取り手を探しました。全国から暖かい反応がありましたが、何せ都心から遠く、老犬ですので引き取り手が現れるのは難しく、そんな中で岬教会員のTさんが「マザーテレサは、行き倒れになった死ぬばかりの人をも、綺麗にして看取ったと読んだ事があります。一番悲しい事は、誰からも顧みられない事だと思います」と言われ、「その子を引き取る」と申し出てくださったのです。引き取りに行く朝、電話をしたら獣医さんが出て、「今朝、亡くなりました。ずっと暖房と点滴をしていましたが力尽きました」と残念そうに言われました。Tさんに、もうし分けないと思いつつ、「イエス様、天で、この子を慰めてください」と祈りました…悲しい結末でしたが、御言に聴くと、こんな豊かな世界が開かれる事をも教えられました。

さて、聖書に戻ります…「御言を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)…この”行う”という御言には、”儲ける”という意味もあるのです。「御言で儲けなさい?」…不思議な感じがします。これは、”御言が実生活で働く事を体験していきなさい”という意味があるのです。
「心に植えつけられている御言を、素直に受け入れなさい。御言には、あなた方の魂を救う力がある」(ヤコブ1:21)…「御言を聴いて信じる者は救われる」なら分かりますが、御言をおこなうと救われる」というのはどういう事でしょうか?…福音に反する教えにも聞こえます。長く、”藁の書”と軽んじられてきた原因が、この”行動義人(行動によって救われる)”と誤解されてきた所にありました。
”神の言の中心は、十字架による救いのメッセージ”です…キリストは、神が人に降す、罪への怒り(審き)を、身代わりに引き受ける為に、十字架に架けられ、神から罪の審きを受けられました…そして、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないからです」と執り成してくださったのです…”御言を行う”とは、恵みによって御霊の実を結び、このキリストに似た者になる事なのです…人の弱さや、欠けを受け入れ、自分が補い、神に、「父よ、この人を赦してください」と執り成す者、言い換えれば、隣人の救いの為に献身する者と変えられて行くのです。
聖化の恵みも、救いの恵みの中に入っている…信仰によって、救われた者が、御言を行いたいと願って祈り、聖霊によって御霊の実を結場背手頂いていく。そして、キリストに似た者に変えられて行く(聖化の恵みに預かる)事が、ここで言う、「救くわれる」という事なのです。

礼拝インターネットライブと過去の映像 『USTREAM』岬教会礼拝

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