ねたむほどの神の愛
- 2016/05/01
- 16:15
ヤコブへの手紙4章1~6節【口語訳】、2016年5月1日
4:1あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それは他ではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3求めても与えられないのは、快楽の為に使おうとして悪い求め方をするからだ。
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5 それとも、「神は、私達の内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
4:6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
今朝は、ヤコブ書4:5節「神は、私の内に住まわせた霊を妬む程に愛しておられる」事についてお話しいたします。さて、皆さんは、自分自身がどんな人間なのか自覚しておられるでしょうか?「四十にして惑わず」という言葉がありますが、多くの人々が、晩年まで自分捜しの旅を続けておられるように感じます。カウンセリングに、他者に自分を肯定的に評価して貰うという手法があります…コンプレックスで心の目が歪み、自分が正しく見えなくなっているからです。自分自身は、自分では、なかなか分からないのです。

ヤコブの手紙4章4節には、神の目に映っている人の姿が記されています…それが、「不貞のやからよ=神に背いた者たちよ」です…”不貞=神に背く”というのは、生ける神以外の物に心を惹かれ、それを第一としている人の事です。ですから、旧約聖書では、人が造った神々を拝む偶像礼拝を、不貞(不倫)になぞらえられているのです。
英語で愛をLoveと言います。「I love you」を、二葉亭四迷は「君の為なら死んでもいい」と訳したそうです。日本語の豊かさを感じます…正に、十字架がそうでした。
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さて、今朝の御言は、「神が私達の内に住まわせた霊を、妬む程に愛しておられる」です…詳訳聖書では、「神が、私達の内に住まわせられた御霊は、妬む程の愛をもって、私達を慕われる…続いてカッコがあり、網1つの解釈が乗っています。」(神は御霊が、歓迎される事を妬む程の愛をもって望まれる)」となっています…幾つもの意味のある御言なのです。
”妬む”は、罪を感じさせる言葉なので違和感を感じます。日本の八百万の神々は嫉妬しないようです?「妬む程に愛する神」は、出エジプト記20章5節で「熱情の神」と訳されています…”人格を持つ者同士の愛は、夫婦の愛のように、熱情を注ぐ1対1の愛”になるからです。それは、排他的とか俗的というものではないのです…ですから、神は1人~に聖霊を注がれたのです。。
「妬む程に愛するは、切実に愛する。切実に望む」と言う意味です…今朝の御言を分かりやすくまとめ直しますと、「神は聖霊を切に愛しておられる。神が注いだ聖霊は、切実にあなたを愛している。また、同時に聖霊は、あなた方が歓迎する事を切に望んでおられる」と言う意味になるのです。
熊本で地震が続いています…ある報道で、こんなエピソードを聞きました。災害当初、食料も物質も無く、避難所も機能していなかった…そんな中、行政の人々は、彼ら自身も被災者であるにかかわらず、必死で働いていた。使命感が彼らの原動力だった。 10日程過ぎた時、行政の人々も、避難者も疲れ果て、心の中で、「もうダメだ」と思っていた。そんな時、援助物資が入っている一つの段ボールを開けた。その中に一枚の紙があり、「何も無いまま迎える未来より、大きな困難を乗り越えて迎える未来の方が、絶対良いに決まっている」と書いてあった…それを読んだ人々は、一緒に号泣した」という話でした…彼らの痛みと労苦を理解してくれる人がいる事に慰められたのでした…神も、御子イエスを献げ、聖霊を注いだ、ご自分の愛(痛みの愛)を受け留めてくれる人に慰められるのです。

聖書は、聖霊なる神(御霊)を様々な言葉で表現しています。
・柔和さの「鳩」(マルコ1:9~11)
・神との生きたかかわりをもたらす「息または風」(エゼキエル37:1~10)
・渇きをいやす生ける「水」(ヨハネ7:37~39)
・豊かな収穫をもたらす「雨」(ヨエル2:23~31)
・結実の「露」(詩篇133:3)
・喜びの「ぶどう酒」(ヨハネ2:1~11)
・力をもたらす「油」(使徒の働き1:8)
・純粋さと熱意の「火」(マタイ3:11~12)
雅歌の2章14節に、「岩の裂け目、 崖の隠れ場にいる私の鳩(聖霊)よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、 あなたの顔は美しい」とあります…私達が、神が望まれる事を後回しにして、自分のしたい事、目や肉の欲に生き続ける事は”、聖霊を、岩の裂け目、崖に隠してる事”なのです…神は、「あなたが隠している、私が愛する聖霊の顔を見せて欲しい。声を聞かせて欲しい」と切に願っておられるのです。
”欲”は生きる為に大切なものです…けれども、”サタンが欲の隙を狙って、欲を汚れさせ、人に罪を犯させて堕落させた”のです。その事を記しているのが、天地創造のアダムとエバの物語です。その”罪が、神と人との断絶を生み出し”ました…けれども、”神は、人間を断ち切らず、独り子を十字架に架けて、罪を赦して、断絶を回復してくださった”のです。神との断絶が回復されたと言う事は、”救われた者に、聖霊が注がれて、神との愛の交わりに生きる者とされた”事なのです。

”キリストは十字架で私達の罪を赦して救って”くださいました。聖書は、”聖霊なる神による救いの御業をも約束”しています。それが、エペソ人への手紙4章30節です。「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなた方は、あがないの日の為に、聖霊の証印を受けたのである」…この御言は、”最後の審判の日”の事を言っています。
私は、あの3.11の前日、最高裁判所に行き、死刑囚の方の結審に出席しました。裁判官は、一言、「更正の余地なしと認めて死刑とする」と言って結審し、TVの速報でも、そのようにテロップが流れました。未成年の集団犯罪に対して、初めての複数人の死刑判決が出るかと注目されていた裁判だったからです…私は、長い彼との文通を通して、罪を悔い、彼が悔い改めて救われ、更正して、多くの受刑者、死刑囚を救いに導いた事を知っています。彼の犯した罪状ゆえに死刑判決を下すのなら分かりますが、「更正の余地なし」という理由は腑に落ちませんでした。教え子の検察官の方に聞いた所、裁判官まで上る情報量は、現場の刑事の1/10という事で理解出来ました。彼が如何に更正したかを訴えの声が弱く、裁判官には伝わらなかったのです。

”私達も世の終わりの日、再臨の主に審かれ”ます…その日、”聖霊なる神が、「この人は十字架で救われたので無罪」という証印を押し、永遠の滅びから救ってくださる”というのです…この聖霊の証印は絶対なのです。
ですから私達は、”聖霊なる神を歓迎し、尊び、感謝する”のです。では、どのようにするかというと、ヤコブの手紙4章6節にあります…「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う」がその答えです…この、”へりくだる”の原語には、「心から神に仕える態度・神に向かう態度」という意味があります。
するとこうなります…神の御前に真実に生きる者に、聖霊が働き、神が恵みをプレゼントしてくださる。即ち、罪が赦された喜びを与え、心の傷から解放し、神に託されている賜物や使命を示して下さるのです…こうして私達の人生を通して、神の栄光を現されるのです…そこで、私達の自分捜しの旅が終わります。神は、この朝、私達がへりくだり、心を開いて、聖霊と愛の交わり生きる事を切に願っておられるのです。

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