神の建物
- 2018/01/12
- 09:28
1コリント3章9~15節.2018年1/7
3:9 私達は神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
3:10 神から賜わった恵みによって、私は熟練した建築師のように土台を据えた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、既に据えられている土台以外のものを据える事は、誰にもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。即ち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
命題:クリスチャンが、イエス・キリストの十字架の救いという土台の上で、神の愛に生きるなら、キリストの愛が現れる教会を建てあげる事が出来、天国で主の御側に座る事が出来る。

新年おめでとうございます。今朝は、1コリント人への手紙に戻って3:9から、”私達は神の建物である”事を聴いて参ります。パウロは、「私は、神から賜った恵み(イエス・キリスト)によって、土台を据えた(十字架の救いに導いた)」。この救いによって、「あなた方は神の畑にされた」と言いました。これは”御言を聴く心が与えられた”事でしたが、それと共に、「あなた方は神の建物である」とも宣言したのです。この”神の建物というのは教会”の事です。”救われた者は、キリストの躰(教会)となるから”です。
そしてパウロは、「あなた方は同労者である」と言いました…”キリストの躰を建て上げていく同労者である”と言ったのです。何故、パウロの同労者なのでしょうか?…同じ聖霊を受けている、同じ神の畑だから、パウロの同労者として、キリストの躰である教会を建て上げていける”からです。建て上げていく事が出来る者とされているという事です。
クリスチャンは才能によってでなく、神の愛によって教会を建て上げるのです…才能は自分の栄光の為に用いるものです。しかし、救われてイエス・キリストを土台とする時に、才能をイエス様にお返しする、お献げする者となる、そうなる時、神の愛が宿った賜物に変えられとして与え直されるのです…教会を建て上げる為です。神の建物というのは、キリストを土台としたクリスチャンの人生であり、その人生が寄り集まり、組み合わされて共同体になって行く時、その群れは教会となっていくのです。

皆さんに祈って頂いた、リビィ真子さんのお母様である藤本スミヲ先生の事をご報告致します…スミヲ先生が金曜日の朝、天国に凱旋されました。前日、真子さんから、「本人も家族も、多くの人のお祈りのクッションに四方八方から支えられて平安です。ここにきて母は、薬が切れると激痛に襲われています。奇跡的に、近くの良いホスピスに導かれました…そうした中で、教会に葬儀が入り、父は、召された知らない方と、ご遺族の慰めを主に委ねて祈っていました。事ある毎に主に感謝し委ねている父の後ろ姿に、神から大きな祝福を受けました」というメールを頂いた翌朝でした。ホスピスから、スミヲ先生が亡くなったとの連絡を受けて受話器を置いた、藤本先生の最初の言葉は、「ハレルヤ。主を褒め讃えよ」だったそうです。苦しみから解放されて、永遠の栄光へと旅立った妻を送り出された言葉でした。
その朝、真子さんは、早く目覚め、祈りに導かれ大きな平安に包まれ、「心配しないで良い。私の手の内にある」との御声が響いていた時だったそうです。後で、ホスピスの看護士の方から「お母様はハワイの方ですか?」と聴かれたそうです。藤本先生ご夫妻は、長くハワイで伝道牧会をしておられました。
看護士さんは、ハワイアンのセレナーデが浮かんだので歌っていたら、スミヲ先生は、その大好きな歌を聴きながら、平安の中、笑顔で召されたという事でした。神の愛する者への真実を教えられました。また、ご家族のお姿に、神の愛が生き生きと燃えているのを感じました。

キリストを土台として人生や教会を建てる、燃えない材料として、ここで言っている、宝石、金、銀、石は、”愛”の事です…素材の違いは愛の質の違いです。愛の成長には時間がかかるので個人差があるからです。
この”愛”というのは”神の愛=無償の愛”です…人の愛は、「愛されたいから愛する」という打算の伴うものです。
ヨハネは、1ヨハネ4:17で、「神を見た者は、まだ一人もいない。もし私達が互いに愛し合うなら、神は私達の内にいまし、神の愛が私達の内に全うされるのである」と言いました。十字架の無償の愛は世には無いからです。その愛を体験した人々の愛の交わりの中に、イエス様が現れるのですキリストそれが、”神の愛が全うされる”事なのです。
神がひとり子を、自分を救ってくださる為に十字架に献げてくださった、この無償の愛を体験した者は、日々、神の愛の高さ深さ広さに驚いて生きる者へと変えられます。そして、「受けるより与える方が幸いである」を体験するのです。

その体験は、次の変化に現れます…家族の為に、教会員の為に、問題を抱える教会や牧師の為に、寄り添い痛み祈る者となり、それだけでなく、ニュースで見た悲しみや困窮の中にある人々の為にも祈る者、時には立ち上がる者(ボランティア等)と変えられていくのです。こうした愛に生きる人々が寄り合わされ、一つのキリストの躰(共同体)になる時、キリストの愛が現れる教会が建つのです。
十字架の愛を知ったクリスチャンには、神の愛への感謝の応答として献身が現れます。牧師になるだけでなく、一人一人、その場で愛に生きる献身へ導かれるのです。その教会を建てる者の愛の質が、宝石、金、銀、石で現されているのです。初めは石で良いのです。燃えない石で教会を建て上げていけば良いのです。その愛で生かされながら、愛が石から、銀になり、金になり、宝石になれば良いのです。
聖書はクリスチャンが三種類あると見ています。愛が熱い、生温い、冷たいクリスチャンです。先ず愛の熱いクリスチャンを、羊や麦、冷たいクリスチャンを山羊と毒麦で現しています…マタイ福音書25:31~46に、世の終わりに再臨されたイエス様が、最後の審判で羊と山羊に分ける。その基準は愛であると言っています。25:40でイエス様は、「あなた方に良く言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、私にしたのである」と言われました…25:45「これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしなかったのである。そして、彼等は永遠の刑罰を受け…」とあるのです。

マタイ福音書7:21にも、「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ天にいます我が父の御旨(愛)を行う者だけが入るのである」とあります。最後の審判で天国に入れず、振るい落とされるクリスチャンはいるのでしょうか?…答えは「いる」です。愛の冷たいクリスチャン、信仰の実体が無い、檀家的信仰のクリスチャンです。
燃える材料の木や草や藁で教会を建てるクリスチャンは、滅びに至る冷たい愛のクリスチャンではありません…ローマ人への手紙3章22節にこうあります。「…イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、それは全ての信じる人に与えられ何の差別もありません」…つまり、こういう事です。イエス様を信じて救われたクリスチャンは、(信仰が少しでもあれば)、皆、天国に入れるのです。黙示録3:15に、「私はあなたのわざ(イエス様は、あなたが、神の愛に生きたかどうか)を知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい」とあります…これが三種類目の信仰の生温いクリスチャンです。
それは聖霊によって生きていない人。聖書に聴かなくても霊の渇きを感じない人。神の愛に生きていない人です。それらの人を木や草や藁で建てているクリスチャンというのです。そうした人々によって建てられた教会は、一時の楽しい交わり(コミュニティ)です…神の愛によって建てられなければ、その教会は無くなるというのです。
1コリント3:13「…かの日(最後の審判)は、火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを試すであろう」とあります…生温い信仰のクリスチャンの内、誰に愛があったか?信仰の実体があったかは人には分かりません…人には心の傷もあるので、愛が無い様に見えて精一杯の人もいるのです。審きは神の領域だからです。

1コリント3:15にも、生暖いクリスチャンの事が書いてあります…「その仕事(愛の無い教会を建てた人)が焼けてしまえば損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが救われるであろう」とあります…「生温いクリスチャンも天国に入る事を、個人的なイメージでいうと、プロ野球を見に球場に行ったものの、満員で中には入れな人が、球場の外から歓声を聞き、球場から漏れてくるカクテル光線を見ているようなものかな?」と思ったりしています…行ってみないと分かりませんが。
けれども私は、キリストという土台(救い)の上で、神の愛への感謝から献身をして、その神の愛で生き、教会を建てた人々は、天国でイエス様の直ぐ側に座れると信じています…そうして眩い栄光の光の中で、讃美の大歓声の中におられるイエス様に、こう言って頂けるのです。「あなたの愛が、私の教会を建て上げたのだよ。ありがとう」と言って頂き、天国の宝神の愛による、完全な癒しと解放を頂き、永遠にイエス様の御許で讃美する者とされるのです。ハレルヤ!
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3:9 私達は神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
3:10 神から賜わった恵みによって、私は熟練した建築師のように土台を据えた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、既に据えられている土台以外のものを据える事は、誰にもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。即ち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
命題:クリスチャンが、イエス・キリストの十字架の救いという土台の上で、神の愛に生きるなら、キリストの愛が現れる教会を建てあげる事が出来、天国で主の御側に座る事が出来る。

新年おめでとうございます。今朝は、1コリント人への手紙に戻って3:9から、”私達は神の建物である”事を聴いて参ります。パウロは、「私は、神から賜った恵み(イエス・キリスト)によって、土台を据えた(十字架の救いに導いた)」。この救いによって、「あなた方は神の畑にされた」と言いました。これは”御言を聴く心が与えられた”事でしたが、それと共に、「あなた方は神の建物である」とも宣言したのです。この”神の建物というのは教会”の事です。”救われた者は、キリストの躰(教会)となるから”です。
そしてパウロは、「あなた方は同労者である」と言いました…”キリストの躰を建て上げていく同労者である”と言ったのです。何故、パウロの同労者なのでしょうか?…同じ聖霊を受けている、同じ神の畑だから、パウロの同労者として、キリストの躰である教会を建て上げていける”からです。建て上げていく事が出来る者とされているという事です。
クリスチャンは才能によってでなく、神の愛によって教会を建て上げるのです…才能は自分の栄光の為に用いるものです。しかし、救われてイエス・キリストを土台とする時に、才能をイエス様にお返しする、お献げする者となる、そうなる時、神の愛が宿った賜物に変えられとして与え直されるのです…教会を建て上げる為です。神の建物というのは、キリストを土台としたクリスチャンの人生であり、その人生が寄り集まり、組み合わされて共同体になって行く時、その群れは教会となっていくのです。

皆さんに祈って頂いた、リビィ真子さんのお母様である藤本スミヲ先生の事をご報告致します…スミヲ先生が金曜日の朝、天国に凱旋されました。前日、真子さんから、「本人も家族も、多くの人のお祈りのクッションに四方八方から支えられて平安です。ここにきて母は、薬が切れると激痛に襲われています。奇跡的に、近くの良いホスピスに導かれました…そうした中で、教会に葬儀が入り、父は、召された知らない方と、ご遺族の慰めを主に委ねて祈っていました。事ある毎に主に感謝し委ねている父の後ろ姿に、神から大きな祝福を受けました」というメールを頂いた翌朝でした。ホスピスから、スミヲ先生が亡くなったとの連絡を受けて受話器を置いた、藤本先生の最初の言葉は、「ハレルヤ。主を褒め讃えよ」だったそうです。苦しみから解放されて、永遠の栄光へと旅立った妻を送り出された言葉でした。
その朝、真子さんは、早く目覚め、祈りに導かれ大きな平安に包まれ、「心配しないで良い。私の手の内にある」との御声が響いていた時だったそうです。後で、ホスピスの看護士の方から「お母様はハワイの方ですか?」と聴かれたそうです。藤本先生ご夫妻は、長くハワイで伝道牧会をしておられました。
看護士さんは、ハワイアンのセレナーデが浮かんだので歌っていたら、スミヲ先生は、その大好きな歌を聴きながら、平安の中、笑顔で召されたという事でした。神の愛する者への真実を教えられました。また、ご家族のお姿に、神の愛が生き生きと燃えているのを感じました。

キリストを土台として人生や教会を建てる、燃えない材料として、ここで言っている、宝石、金、銀、石は、”愛”の事です…素材の違いは愛の質の違いです。愛の成長には時間がかかるので個人差があるからです。
この”愛”というのは”神の愛=無償の愛”です…人の愛は、「愛されたいから愛する」という打算の伴うものです。
ヨハネは、1ヨハネ4:17で、「神を見た者は、まだ一人もいない。もし私達が互いに愛し合うなら、神は私達の内にいまし、神の愛が私達の内に全うされるのである」と言いました。十字架の無償の愛は世には無いからです。その愛を体験した人々の愛の交わりの中に、イエス様が現れるのですキリストそれが、”神の愛が全うされる”事なのです。
神がひとり子を、自分を救ってくださる為に十字架に献げてくださった、この無償の愛を体験した者は、日々、神の愛の高さ深さ広さに驚いて生きる者へと変えられます。そして、「受けるより与える方が幸いである」を体験するのです。

その体験は、次の変化に現れます…家族の為に、教会員の為に、問題を抱える教会や牧師の為に、寄り添い痛み祈る者となり、それだけでなく、ニュースで見た悲しみや困窮の中にある人々の為にも祈る者、時には立ち上がる者(ボランティア等)と変えられていくのです。こうした愛に生きる人々が寄り合わされ、一つのキリストの躰(共同体)になる時、キリストの愛が現れる教会が建つのです。
十字架の愛を知ったクリスチャンには、神の愛への感謝の応答として献身が現れます。牧師になるだけでなく、一人一人、その場で愛に生きる献身へ導かれるのです。その教会を建てる者の愛の質が、宝石、金、銀、石で現されているのです。初めは石で良いのです。燃えない石で教会を建て上げていけば良いのです。その愛で生かされながら、愛が石から、銀になり、金になり、宝石になれば良いのです。
聖書はクリスチャンが三種類あると見ています。愛が熱い、生温い、冷たいクリスチャンです。先ず愛の熱いクリスチャンを、羊や麦、冷たいクリスチャンを山羊と毒麦で現しています…マタイ福音書25:31~46に、世の終わりに再臨されたイエス様が、最後の審判で羊と山羊に分ける。その基準は愛であると言っています。25:40でイエス様は、「あなた方に良く言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち、私にしたのである」と言われました…25:45「これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしなかったのである。そして、彼等は永遠の刑罰を受け…」とあるのです。

マタイ福音書7:21にも、「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ天にいます我が父の御旨(愛)を行う者だけが入るのである」とあります。最後の審判で天国に入れず、振るい落とされるクリスチャンはいるのでしょうか?…答えは「いる」です。愛の冷たいクリスチャン、信仰の実体が無い、檀家的信仰のクリスチャンです。
燃える材料の木や草や藁で教会を建てるクリスチャンは、滅びに至る冷たい愛のクリスチャンではありません…ローマ人への手紙3章22節にこうあります。「…イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、それは全ての信じる人に与えられ何の差別もありません」…つまり、こういう事です。イエス様を信じて救われたクリスチャンは、(信仰が少しでもあれば)、皆、天国に入れるのです。黙示録3:15に、「私はあなたのわざ(イエス様は、あなたが、神の愛に生きたかどうか)を知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい」とあります…これが三種類目の信仰の生温いクリスチャンです。
それは聖霊によって生きていない人。聖書に聴かなくても霊の渇きを感じない人。神の愛に生きていない人です。それらの人を木や草や藁で建てているクリスチャンというのです。そうした人々によって建てられた教会は、一時の楽しい交わり(コミュニティ)です…神の愛によって建てられなければ、その教会は無くなるというのです。
1コリント3:13「…かの日(最後の審判)は、火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを試すであろう」とあります…生温い信仰のクリスチャンの内、誰に愛があったか?信仰の実体があったかは人には分かりません…人には心の傷もあるので、愛が無い様に見えて精一杯の人もいるのです。審きは神の領域だからです。

1コリント3:15にも、生暖いクリスチャンの事が書いてあります…「その仕事(愛の無い教会を建てた人)が焼けてしまえば損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが救われるであろう」とあります…「生温いクリスチャンも天国に入る事を、個人的なイメージでいうと、プロ野球を見に球場に行ったものの、満員で中には入れな人が、球場の外から歓声を聞き、球場から漏れてくるカクテル光線を見ているようなものかな?」と思ったりしています…行ってみないと分かりませんが。
けれども私は、キリストという土台(救い)の上で、神の愛への感謝から献身をして、その神の愛で生き、教会を建てた人々は、天国でイエス様の直ぐ側に座れると信じています…そうして眩い栄光の光の中で、讃美の大歓声の中におられるイエス様に、こう言って頂けるのです。「あなたの愛が、私の教会を建て上げたのだよ。ありがとう」と言って頂き、天国の宝神の愛による、完全な癒しと解放を頂き、永遠にイエス様の御許で讃美する者とされるのです。ハレルヤ!
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