愛をもっておこないなさい
- 2018/10/18
- 16:56
コリント第一16:14、ルカ福音書19:7~10、10/7
コリント第一16:14
16:14 いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
ルカによる福音書19:7~10
19:7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8人々は…「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もし誰から不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9イエスは彼に言われた、「今日救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救う為である」。
主の御名を讃美します。ハレルヤ!
今朝は、「一切の事を愛をもっておこないなさい」についてお話します…では愛による行いとは何でしょう?…それは、相手の心を見て共感する事、共感して行う事・支える事です。 それは、単なる人間的な配慮ではなく、神の愛による配慮です。そこで今朝は、どうやって、神の愛によって生きて行くのかについてお話します。
さて、コロサイ人への手紙 4:6に「いつも、塩で味つけられた、優しい言葉を使いなさい。そうすれば、一人一人に対してどう答えるべきか分かるであろう」とあります。
塩は、日本では神事では聖めの儀式に用いたり、生活では防腐の為に用いられます。また味つけになくてはならないものですし、身体にとってもなくてはならない栄養素です。
聖書は、マルコ9:49で「人は全て火で塩づけられねばならない」と言っています。私達が塩で味付けられなければならないというのです…この”火は聖霊”の事です…つまり、聖霊の火という塩で味付けられた、神の愛の配慮によってのみ、人は隣人の心を見る事、そして共感する事、支えの手を出す事が出来るのです。
ルカ福音書19章に、イエス様がエリコの町を通られた時の出来事が記されています。人々は、ひと目、イエス様を見ようと沿道を埋め尽くしていました。その時、ザアカイという背の低い人が主を見る為に木に登ったのです。
TDLのパレードでは、皆、沿道に行儀良く座って見ています。そんな中で、一人の大人が木に登って見ていく光景を想像して下さい…その人は、注目を浴びて恥ずかしい思いをすると思います。この時、ザアカイも恥ずかしさの中で木に登っていたのでしょう。
でもザアカイは、何故そこまでしたのでしょうか?…それは、ザアカイの心に自責の念があり、「自分はこれでは駄目だ」と行き詰まっていたからでした…何とか、イエス様と出会えれば、人生の突破口になるかもという切実な思いから出た行動だったのでしょう。
彼の職業は取税人でした…取税人は、当時、母国イスラエルを占領していたローマに魂を売り、彼らの手下になって、同胞から規定の何倍もの税金を取って私腹を肥やしていたのです…ですから当時の”取税人は、悪人・嫌われ者の代名詞”でした。

エリコの町にあるザアカイの木
人が人を愛したり好きになるのは、相手に価値があるからです。ですから自分も、好きな相手に愛される為、価値ある人間になろうと努力します。
けれども、ここでイエス様が愛されたのはザアカイでした。イエス様は、ザアカイが登っていた木の下で足を止め、上を見上げて、「ザアカイよ今日お前の所に泊まる事にしている」と言われたのです…それは、”彼と食卓を共に囲む”という事を意味していました。
当時、”食卓を共にするというのは、厳粛な契約の場”でした…”食卓を囲むのは、招いた家の主人が、お客に対して「命と全財産を持って、あなたを守る」と契約する、礼拝の次の厳粛な場だったのです…これは、今の礼拝の聖餐に繫がっています。聖餐は主(イエス・キリスト)の食卓だからです…更に、当時のイスラエルでは約束は絶対”でした。
ですから人々は、イエス様が「ザアカイの家に泊まる」と言われたのを聞いてガッカリしたのです…何故なら、彼より自分の方が、主に愛されるに相応しいと思っていたからでしょう。
人は価値ある者、成功者の所に集まります。よくオリンピックでメダルをとって帰国すると、親戚、元同級生、友達と自称する人が急増するとお聞きます。反対に、前科がついた人や悪い噂が立った人、地位や権力を失った人から、人はあっという間に離れて行きます。
しかし、イエス様はそうではなく、悪人と見られていたザアカイの下に真っ直ぐ向かったのです。それを見た人々は、イエス様がザアカイの子分になったと誤解したのでした。
それは違います…イエス様は、ザアカイの子分でなく、ザアカイを救う主人になられる為に、彼の家に入って行かれたのでした。
それは、イエス様がザアカイの名を知っておられた事からも分かります…イエス様は朝の祈りの中で、神に救いを求めている、ザアカイの心を神に知らされていたという事です。
そしてイエス様が、ザアカイの家に入り、食卓をザアカイと囲んだ時、その家の食卓の主人は、ザアカイからイエス様に移っていたのです…イエス様が主人となり、ザアカイに救いを宣言(契約)されていた事が、食卓の会話から見えて来ます。

ルカ福音書19:8~10「ザアカイは立って主に言った、『主(主人・救い主の意味)よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もし誰から不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します。イエスは彼に言われた、『今日救いがこの家にきた…』。人の子が来たのは失われた者を尋ね出して救う為である」…どんなにザアカイの心に浸みたでしょう。生まれ変わったザアカイの喜びは周りに広がって行きました。。
この会話の行間に、イエス様からザアカイに向かって、”救いの宣言(契約)があった事が伺え”ます。事実、イエス様はザアカイの主人として、彼の罪を贖って救う為、身代わりに十字架に命を投げ出されたのです。私達も聖餐で、この恵みに預かっているのです。
ザアカイが、イエス様に愛され、命をもって救われた理由は一つ…”ザアカイが自分の罪に呻き、神に救いを求めたから”でした。
「一切の事を愛をもって行いなさい」は、ザアカイのような罪人をも愛しなさいという事も含まれているのです…確かに人が罪人を愛するのは簡単な事ではありません。しかし、時に見る事があります。例えば母の愛です。
皆さん、「吉展ちゃん事件」を覚えておられるでしょうか?…迷宮入り目前で解決した昭和を代表する誘拐殺人事件です。犯行現場は上野教会の目の前の公園です。

それは、小原保という犯人が吉展ちゃんを誘拐して、50万円の身代金を奪って、吉展ちゃんを殺し、墓石の下に隠した凶悪事件でした…この小原保容疑者の母、小原トヨさんが「母の手記」を書き、その中でこう言っています。
「村越様、お許し下さい。わしが保を生んだ母親でごぜえます。死んでお詫びがしたい。それでもお詫びには適わないでしょうが、そうでもしないとおられない気持ちです」。
保には障害があったので、わしは他の八人の子どもよりも心配し可愛がってめいりました。でも心が通じず、保に、こんな恐ろしい事をさせてしまって…。
許される事ではないダス、罪の恐ろしさにただ泣いているばかりです…。保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、息子の余りの非道に足がすくんで駄目です。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。 保よ、大それた罪を犯してくれたなあ。わしは、吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんを可愛がったように、お前を可愛がっていたつもりだ。お前はそれを考えなかったのか。保よ、お前は地獄へ行け、わしも一緒に行ってやるから…。」
トヨさんは母としての愛情も罪への認識も持ち合わせていた人でした…子どもの為に、本人以上に罪の重さに苦しんでおられる姿があるからです。
トヨさんは、自分の息子と共に地獄に行く事で詫びようと思われました。けれども、私は、そこには抵抗があります…彼女は地獄という、永遠の滅びの恐ろしさが分かっていたのか疑問だからです…もし、分かっていたら、事件現場の目の前にあった、上野教会の扉をノックして欲しかったと思いました。罪は、この世では罰を受けます。けれども教会の扉を叩いて救われたならば、救われて魂は救われて天国に行ける。教会の扉というのは、そういう所なのです…教会の扉を叩いて欲しかったと思うのです。けれどもここに、イエス・キリストの十字架の愛と重なる部分も感じます。

コリント第一16:14に「一切の事を、愛をもって行いなさい」とあります…自分の罪に気づいて呻いて救いを求め、十字架の救いを体験した者は、聖霊の火を受ける。すると、神の愛に大切に生かされて行く人生を体験する…そして、そこで、塩で味付けられ、キリストの愛で、隣人の心を見つめ共感する人格が与えられて行く道という事です。
世は皆乾いています…世の人々はオアシスである私達を探し求めているのです。
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