あなたの神は私の神(ナオミとルツ)
- 2014/07/16
- 09:50
ルツ記1章16節、2014年7月6日
『ルツ記』は、聖書の中では珍しい女性名がついた書簡です。ユダヤ人のエリメレク一家が、飢饉から逃れて、ベツレヘムから死海を挟んで反対側にあるモアブの地に移住した所から、ルツ記は始まります。所がこのエリメレク家が大きな不幸に見舞われて行くのです。

エリメレクが死んでしまうのです…妻のナオミは残された二人の男の子を、女手一つで育て上げました。やがて長男マロンはモアブの女性と結婚しました。その女性が、この書のヒロインのルツです。弟も、同じくモアブの女性オルパと結婚しました。所が、その10年後、長男と次男が、次次と死んでしまったのです。
エリメレクの妻ナオミと嫁達、三人がやもめとなってしまったのでした。食卓を囲む度、悲しみと侘(わび)しさに包まれた事と思います…三人はそれぞれ将来の事を心配して考えていた事でしょう…しかし、それを口にする事無く、ナオミの傍で従順に暮らしていたのでした。

そんなある日、ナオミが「ベツレヘムに帰ります」と帰郷宣言をしたのです。イスラエルの飢饉が去ったからでした…この飢饉が終わったという知らせに、ナオミは神の時が訪れたと見て取ったのです。こうして三人はベツレヘムを目ざして旅立ちました…ルツとオルパは、「もう生きて親に会う事はできないだろう」と、涙でかすんだ目で、何度も故郷を振りかえって見たと思います。
*ナオミの心変わり
そんな思い迄して旅立って間もない内に、ナオミが、また思いがけない事を言い出したのです。「あなた方は、それぞれ自分の母の家に帰りなさい」(ルツ記1:8)…ナオミは、ハッと、「イスラエルの律法では、異邦人との結婚を禁じている」という事を思い出し、「異邦人の嫁達を連れて行く事は、彼女達の再婚の道を閉ざす事になる」と気づいたからでした。
けれども、ルツとオルパは、「いえ、あなたと一緒に、あなたの故郷に帰ります」と言ったのです…ナオミは心を鬼にして、「私は、もう夫の血筋を残す事は考えていません。私の事なら大丈夫。だから、あなた方は故郷に帰って結婚しなさい」と言ったのでした。
ルツ1:13には、「主の手が私に臨み、私を責められた事で、あなた方の為に、私は非常に心を痛めているのです」とあります…”ナオミは、今のこの不幸は、神からの裁きだと思っていた”のでした…”そんな境遇に、嫁たちを巻き込む事に胸を痛めていた”のです。それで、「帰りなさい」と言って譲らなかったのでした。
このナオミの言葉を、二人の嫁は違う思いで聴いていました…ルツは、ナオミが、一人とぼとぼと、ベツレヘムに帰る姿を思った時、ナオミの今までの愛と、生ける神を教えてくれた恩に迫られ、彼女の下を去る事は、ナオミを捨てる事だと思ったのです。

一方の嫁オルパは、ナオミの言葉を素直に受けとめて、モアブに帰って行ったのでした。しばしば、この二人の信仰を比較した説教をお聴きします…確かにルツは信仰のヒロインです。けれども、オルパを不信仰だと責める事が出来るでしょうか?…夫を亡くした後、その姑と一緒に暮らし、姑の故郷に向かって旅立っていたのです。ナオミに、「あなたは故郷に帰りなさい」と言われた時には、「あなたについて行きます」とも言ったのでした。それでも必死に説得するナオミの言葉を聴いて、涙ながらに帰って行ったからです。
ですから私には、「オルパは不信仰だった」と言う批判は律法的に感じるのです…しかし、”一つだけ言える事”があります。それは、”ルツが姑ナオミと共に、イスラエルに行く道を選んだ結果、彼女はイエス・キリストの先祖となる”という事です。
オルパは、故郷に帰って自分の人生を生きました…再婚をして幸せに過ごしたかも知れません。それも祝福された人生です。ただ、”オルパの名前は二度と聖書に出てこない”のです…この一点がルツと違います。聖書は救いの歴史を記している書です。もうオルパの名が出てこないのは、彼女が救いの歴史から外れたからでした。私達は、親族や住んでる世界の人々を、神の下に導いた人として、天に名が記されたら良いと思います。

さてルツに戻ります…彼女の愛の歩みは、信仰深かったから出来たのでしょうか?…聖書を読むと、ルツが素直で優しい女性だった事は分かりますが、特にルツの信仰深さは記されていません…”ルツの行動は、彼女が神に選ばれていたから生まれた”のでした。キリストの先祖として選ばれ、捉えられていたから、異邦人なのに、ナオミの神を信じられたのです…そこには、一方的な神の選びという、恵みがあったのでした。
それは”私達の救いと同じ”です…”私たちの救いも、一方的な”神の恵みによって選ばれたからあった”のです、私達に何の手柄や、理由があったわけではないのです。
*ルツの回心*
ルツは、ナオミにすがりついて、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言いました。この言葉は、”ルツの回心”と言われる有名な言葉です。
ルツは、10年間見てきたナオミの姿を通して、ナオミが信じる神を、自分の神として信じたのでした…ルツの時代の回心は、今では想像出来ないほど重いものでした。当時の社会は、宗教共同体だったからです。神への信仰を絆に一つになっていました。生活と政治が宗教とが密着していたので、宗教の選択の自由は無かったのです。
”ルツが回心した事は、故郷の宗教を捨てる事、それは親や親族、友も捨てる事を意味”していたのです…言い換えれば、”ナオミへの愛のゆえに過去の自分に死んだのです…しかし、それは、またナオミの神を通して、新しい自分になる事でもありました”…ナオミの背中は、よほど証しに満ちたものだったのでしょう。

先週、受洗の恵みに与ったM兄は、1年前のHibaの春のキャンプに行かれ、はじめ同年代の青年達が、主イエスを信じ讃美しているのを驚いて見ていたそうです。けれども、一緒に讃美している内に、心が聖霊で満たされ、主イエスを救い主と信じていたという事です…人は初め、人を通して神を見るのです。
ヨハネ福音書14:9で、「神を見せて下さい」と言った弟子ピリポに対して、主イエスは、「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私がわかっていないのか。私を見た者は、父を見たのである」と言われました…ピリポは、3年半も主と共にいながら、”主イエスをキリスト(救い主)とは見えていなかった”のです。
さて舞台を、十字架の3日後、主イエスが復活された時に移します…弟子のペテロとヨハネが墓に向かって走って行きました。ヨハネ福音書の20章には、3回、「見る」という言葉が出てきます。原語のギリシャ語では、全て違う言葉が使われています。
初めヨハネは、墓の外から、主イエスの遺体に巻かれていた、亜麻布が置かれているのを見ました。この「見る」は字通りの見るです。
次にペテロが墓に入って行き、じっと見たのです。これは「確かめた」という意味の見るです。すると、主の頭を包んでいた布は、離れた所にくるめてあったのでした…亜麻布の中の頭が、すり抜けたように無くなっていた(ペちゃんと潰れていた)のに気づいたのです。
そこに、後から入って来たヨハネが「見た」のでした…これは「見て納得した」という意味の見るです。ヨハネは、その布を見て、主イエスが甦られた事を納得したのでした。
”信仰によって主イエスを見る時、イエスが救い主だと分かってきます。すると、神が分かって来”ます…”罪を赦す事と、死の力を打ち破る事は、神だけが出来る御業だから”です…ですから、”主イエスを信仰をもって見る者は、神を見る者となれる”のです。

さて、神を見た者は生活が変わってきます…ルツは神の愛に満たされて、「あなたの死なれる所で私も死にたいのです」と言ったのです。その言葉は、神の愛から出た言葉でした。それ見抜いたナオミは、そっと涙をこぼし、ルツの申し出を受け入れたのです。
ルツはナオミを通して、「あなたの神は私の神です」と告白し、神と共に生きる者になりました。私達も、”主イエスを信仰をもって見る時、神を見る事が出来る”のです。”神が私を知り、私を見、私を愛して、十字架で罪を赦し、永遠の命を与えて下さった事を見る事が出来る”のです。それは、新しい人生、神と共に生きる人生、神の愛で生きる人生”なのです。
ルツ記 1:16
しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
ヨハネ福音書14:9
「イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、私がわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである…。」

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