油注がれた者を重んじる愛
- 2014/11/01
- 10:02
サムエル記下1章14節、ローマ5章8節、2014年10月26節 説教者:千葉和幸
サムエル記下1:14「ダビデはまた彼に言った、「どうしてあなたは手を伸べて主の油を注がれた者を殺すことを恐れなかったのですか」
ローマ人への手紙5章8節「しかし、まだ罪人であった時、私達の為にキリストが死んで下さった事によって、神は私達に対する愛を示されたのである」
先週、私達はペリシテ軍とイスラエル軍との決戦によって、サウル王と4人の息子の内、ヨナタンを初め3人が死んだ事を聞きました。
その悲劇の3日後の事です。ダビデが戦況の行方を案じ、まんじりともしないでいた所に、ボロボロの衣服をまとった、一人のアマレク人が飛び込んで来ました。「お前は何処から来たのか?」と問うダビデに男が答えました。「私は戦いから逃げて来ました」…するとダビデは身を乗り出して「戦況はどうなったのか?」と聞きました。
すると男は、待ってましたとばかりに、「イスラエル軍の完敗でした。何千人という兵士が戦死しました。サウル王は瀕死の中で、「私にとどめを刺してくれ」と言われたので、私が殺しました」と言って、サウル王の王冠と腕輪を差し出したのです。サウル王がダビデの命を付け狙っていた事を知っていて、ダビデからの報酬を期待した半分作り話でした。

しかし、ダビデの反応は、彼の予想と全く違いました…ダビデは怒り心頭になり、真っ赤な顔と泣きはらした赤い目で男を睨み付け、「どうして、あなたは、主が油注がれた者を殺す事を恐れなかったのか?」と言い、部下に男の処刑を命じたのでした。私は処刑した事に対しては違和感を感じますが、ダビデの、”神の油注ぎを重んじる思い”が、私の想像を遙かに超えるものだったのだと思います。
その後、ダビデは哀悼の歌を歌いました…後世に歌い継がれる悲しみの歌です。1章19~27節がそれです…ここでダビデは、3度も「ああ、勇士達はついに倒れた」と歌ったのでした。それからダビデは親友ヨナタンの死を嘆きました。1:26「わが兄弟ヨナタンよ、あなたの為わたしは悲しむ。あなたは私にとって、いとも楽しい者であった。あなたが私を愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた」と言って、男泣きに泣いたのでした。

それにしても、どうしてダビデは、自分の命を狙い続けたサウル王の死を、こんなに悲しんだのでしょうか?…それは、”ダビデは、神が選ばれ油注がれた人を尊び重んじるという一点に於いて、心が澄んでいた。心の清い人だったから”です。主イエスは、マタイ福音書5章8節で、こう言われました。「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るであろう」…ダビデの、この掛け値なしの悲しむ姿が、素の悲しむ姿が、人々に彼と共におられる神を見せたのでした。人々は「次に王となる人は、神と共にいるこの人しかいない。だから何としてでも、この人を王にしたい」と思ったのです。
クリスチャンはキリストの証人です。ですから、「キリストを証し出来る様に、共にいてくださる主イエスよ。私に主による笑顔、平安、寛容を与えてください」と祈ります…けれども、ここを見ると、悲しむ姿も、人々の心を捉え、主イエスを証しする機会だと分かります…悲しみの時は、清い心に住まわれる、キリストの愛が現れる時だからだと思います。
ダビデがサウル王の死を悲しんだ理由はもう一つありました…それは、”サウル王を尊敬していたから”です。
NTTドコモのラジオCMには名作があります…ざっくりとご紹介します。「我が家に天使がやってきた。娘が生まれた。娘は怪獣(泣き声)になった。やがて娘は言葉を覚えた「パパ大好き」…娘はお姫様になった。十数年が過ぎ娘は宇宙人になった。「女子高生の言葉…(昨日、先輩とマジでバトって、久々に劇怒・・・私に再現不能ですm(_ _)m(スミマセン)」…何を言っているかさっぱり分からない。私は良く注意するようになり、話しをしなくなった。やがて娘は就職した。久しぶりに娘から電話があった。
「お父さん。働くって大変だね。私、お父さんを、少し尊敬してるよ…娘は大人になった。こうして娘と話をするようになった。そして今日、娘が去って行く(結婚式)。娘よ、おまえは何時までも大切な娘だ」…ざっと、こんな内容だったと思います。娘は、お父さんに反抗しつつもお父さを尊敬していたのです。しかし、娘を指導する父の立場や、世代の価値観のギャップが、二人の溝を大きくしていったのでした。お父さんも、娘も理解し合いたかった。同じ苦労を知って、少し理解し合えたのです。

ダビデとサウル王も、サウル王の嫉妬によって、わかり合えない父と子のような関係でした。けれどもダビデは心の底で、神に選ばれて油注がれた。そして国をまとめてきたサウル王を尊敬し、その王に認めて欲しかったのです。何よりも、神に油注がれた者の責任と重さがわかり合える。また、神の御前で、自分の弱さゆえに失敗した事を共感し合えたのも二人だけだったからです。
新約聖書になると使徒パウロは、Ⅰコリント8:11でこう言いました。「この弱い(罪深い)兄弟の為にも、キリストは死なれた(十字架に架かられた)のである」と言いました。
人は隣人を、能力や、容姿や、自分に対する態度で評価します。しかしパウロは、「キリストが、その人の為に十字架で死んだから、その人には価値がある」と言ったのです。

キリストが十字架に架かる程、その人を愛されたのは、今は手に負えない人でも、十字架で罪赦されて、新しく生まれ変わる姿を見ていたからでした…人には見えなくても、キリストには、その人の内にある、神の子となる原石が見えて、愛して死なれたのです。だから私達には価値があるのです。そして、その通りに”救われた人の心に、神油(聖霊)を注がれ”ます…ですから、救われた人の心にイエス様の御臨在が生まれるのです。
私が交流してきた死刑囚の方は、獄中で救われ、それから獄中伝道の第一人者になりました。名古屋拘置所に行って面会した時には、普通のクリスチャン青年にしか見えず、「この人が、本当にあんな重罪を犯したのかなあ?」と、そのギャップについて行けませんでした…聖霊が彼を変えたのです。
八重の桜というNHKの大河ドラマがありました…その中で、新島襄が苦労して、京都にミッションスクールの同志社大学を創立した事が描かれていました。その大学で騒動が起きた時、新島襄は学生を処分せずに、ステッキで自分の手を、ステッキが折れるまで打ち続けたシーンがありました。これは実話でして、この姿が学生達に十字架の福音を見せ、そして福音を受け入れた学生達が、あらゆる分野に、キリスト者として派遣されて行ったのでした。

最後にローマ人への手紙5章8節をお読みします…「しかし、まだ罪人であった時、私達の為にキリストが死んで下さった事によって、神は私達に対する愛を示されたのである」とあります…神は私達が、まだ神から離れていた時、(罪人であった時)に、神が一人子キリストを十字架に架けて、私達を救ってくださいました。これが神の愛なのです。私達は神に愛されたのです。そして神は、救われた人々に聖霊を注いでくださいました。私達は神に重んじられたのです。私達は神に、サウル王やダビデが油を注がれたように、聖霊を注がれる程に重んじられたのです。

私達の多くは、不完全な自己受容を背負っているのではないでしょうか?…「私はこのままで良い」と自分を深く受け入れられないと、愛せないと隣人をも受け入れられません。ですから神は、聖霊を、私達に注ぐ程に愛してくださったのです。それゆえ、お互いに重んじあえるのです=受け入れ合い、許し合う事が出来るのです。世の人々は、そんな私達の姿に、神の愛を見る事が出来るのです。

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